【続】「リスボンに誘われて」と「リスボンへの夜行列車」 [ポルトガル書籍・辞書など]
「リスボンへの夜行列車」を半分読みかけたところで書いた記事がこちら。
http://necopol.blog.so-net.ne.jp/2014-08-15
このあと完読して、さらに昨日映画「リスボンに誘われて」も見てきました。
これでちゃんと比較できる。
さて、すでに見た人が映画のラストシーンをどう捕らえるか、と言ってたのだけど「青い鳥は身近にある」とか、「自分が見つかった」とかの解釈にはいたらなかった。これは「恋愛映画」のラストシーンに他ならないから。
原作「リスボンへの夜行列車」を読んでから行ったのが最大の後悔かも。これは逆のほうが絶対よい。
個人的な感想にはなるが、原作で感じられる、主人公の書物や言語への愛や執着がそぎ取られているため彼の行動の「必然性」が「(原作にはない)いろんな偶然の積み重ね」に置き換えられているように感じた。悪く言ってしまえば「映画的ご都合主義」。でも長編を2時間にまとめるにはこれはしょうがないし、細かく追っていたら映画的なダイナミックさも失われてしまう恐れもある。
だからこれは、別物、なのだ。
でも、見る順番は気にしたほうがいいかもしれない。上映中イライラと退屈の連続で...実は映画館でようかとまで思ったから(笑)。原作を読まずに観てたら、もっと楽しめたと思う。
ただ、アマデウたちの若き日々の熱さや緊張感と、老いて生き残った人たちとの対比は、「いまここにないもの」への感情「サウダーデ」を感じさせるものだった。とくに老いた人々を演じる男優たちがよかった。若きアマデウの俳優も素敵だったけどね。
わがまま言うと、せりふが英語でさえなければ。
原作「リスボンへの夜行列車」には、映画には登場することの許されなかった(?)多くの重要人物が出てくる。おすすめだし、映画の余韻も増すと思う。本当に順番間違えたわ。
ただ「リスボン」というキーワードだけでタブッキやサラマーゴと並べてしまうとちょっと違和感を感じる。いいか悪いかと言う意味ではなく、質の違う小説だからか。
ポルトガル三部作を書いたり、他にもポルトガルを舞台にした短編を書いているタブッキ。外国人である、という点でパスカル・メルシエとは共通しているが、ポルトガルへのコミットの仕方というか密度・濃度が量的にも質的にも違う。「人を探す」という点で、出だしちょっと似てるかな、と思ったけど、タブッキの寓話的・幻想的な世界観は「夜行列車」にはなく、だからかもしれないが読みやすく、理解もしやすい。哲学小説とキャッチが打たれているが十分娯楽小説だと思う。それもとても良質な。世界的なベストセラーになったのも納得。メルシエのほかの作品も読んでみたくなった。
サラマーゴはそもそもポルトガル人であるけれど、彼の作品にはあまり固有名詞は出てこない。どこか異空の世界の物語のようで、難解な、というか読みにくい文章が私はすごく苦手で。もっともリスボンを描いている「リカルド・レイス死の年」は遅々として進まず(涙)。いやいや、ちゃんと読んで、サラマーゴについてもきちんと話せるようになりたい。
「リスボンへの夜行列車」は、リスボンへの愛、というより「書物と物語と言語」に対しての愛や執着や、それに付随する憎悪に満ちている作品だと思う。本が好きな人や、日常的に本が身近な人は多分「あるある」とうなずくところが多いかもしれない。
言語と言えば、冒頭の方の「Portuguese」という美しい言葉が、映画ではまったく無視された点で、やっぱり、許せん(笑)。
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